おばんです。。。。
おもしろかった、今夜の真田丸。。。
関ヶ原のシーンが亡くなっていたのは、
意外でしたがね、舞台がもはや、真田幸村の大阪
夏の陣へとすすんでいる、まさに、プロ野球同様
クライマックスシリーズなのでしょうな。。。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
とくに、現代のしごとにも役立つと思われる格言や
教訓が、ドラマの中でもありましたね。。。。
・最初のいくさ(つまり、仕事ね)で、恐怖心が
できると、一生いくさべたになる。。。つまり仕事がうまくならない、
という武将のセリフ (真田の父・昌幸のセリフ)
・武将にとっては、仕事(いくさ)がなく、のんびりと隠居する
のは、なによりの生き地獄かもしれない、(徳川家康)
・勝てると思ったいくさに油断するな。。いくさでは
大軍をかさにきるな。。。徹底的に、のんびりと、じっくり
かまえよ。。。若いものは焦る。。。(本田佐渡守正信のセリフ)
・いくさ(仕事)とは、このようなものであるか????
わたしは初陣ゆえわからぬ???大軍でおしだしたら、
まずいのか???戦、人情の機微がまだわからぬな。。。。
(関ヶ原の初陣で上田城攻めのため、本戦に遅刻した二代将軍秀忠の言葉)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●などなどね、現代のサラリーマン社会、広告、メディア社会に
おいてもね、使える格言がたくさんありましたね。。。ほんまに。。。
そして、舞台は、真田昌幸の処分へと移る。。。そして、幽閉される
真田幸村。。ここから、徳川家康が将軍になり、家康は三年で引退。。。
二代将軍秀忠になる。。また、徳川初代についていた武将も相次ぎ
引退し、本多佐渡の息子が、二代秀忠についていく。。。秀忠は
この関ヶ原が初陣であったために、真田にてこずり、今度は
大阪城攻めを画策するようになる…という顛末。。。おもしろいね。。。
本多佐渡も還暦を超えた家康についていたが、息子が正純となり
二代将軍についたために、そこから幕臣、初代老中、から大老のような
立場となり、最後は、大阪城攻めを決めた二代将軍秀忠に献策を
しながら、じぶんも家康のあとをおい、老衰して江戸でなくなる。。。。
家康もすでに大阪夏の陣のときには、逝去していた、というぐらいの
うわさがあるほど将軍職ははやく退いて、息子に譲ってましたね。。。
そして、真田はこの場面からオヤジである昌幸が九度山で幽閉ご、
病没。。いくさのない、十五年が過ぎ去り、そして、二代将軍
秀忠が還暦になったころにね、豊臣家を滅ぼす大阪夏の陣が
おきて、そこには、徳川軍には、精鋭は多いが、あまり、昔の
軍法を知る者がいなかった、とされているね。。だからこそ、
真田幸村がね、じぶんの武名をあげるためにね、あえて、
戦わずしてもよい、豊臣方についてね、大いくさを仕掛けて
討ち死にした、とね。。まあ、そういうドラマの終わり方である。。。。
だからまあ、●大きな仕事ができないまま、一生を終えるとね、
いたしかたのないものになる…というね。。。教訓もそこには
あるね。。。ほんまに。。。官僚タイプだった石田光成もやっぱり
大きないくさを仕掛けたからね、天下に名前が鳴り響き、残ったのだ、
ということをね。。まあ、死ぬ前の真田は考えていてね、よーし、俺も
やってやる、とね。。。大阪夏の陣に突入してね、まあ、大阪で戦死する
のである。。。まあ、本来は真田がでなくてもね、豊臣は負けていてね、
まあ、無用のいくさであったがね、真田はそこをまあ、大プレゼンにした、
というね。。。いくさがうまかったオヤジをのりこえようとね、まあ、
本来なかったようなところでね、いくさを展開し、大プレゼンをした、
というね。。ことですかね。。。。
それはまあ、いわばね、現代でいえば、あの電通さんがね、唱えて
おられるようにね
●大きなしごとをしろ。。。小さな仕事をするな。。。小さな仕事は
君を卑屈かつ未練がましいひとにする。。。大きな仕事、国を動かす、
世間を大騒ぎさせるような、ビッグでメジャーな重量級のしごとをしろ。。。
(電通 鬼の充足より)
みたいなことかもしれないね。。。ほんまに。。まあ、ライターもね、
ライターでとどまるのではなくてね。。いつまでも、新聞半五段みたいな
しごとではなくてね。。はやく、15段とか30弾をやる。。そして、
大キャンペーンをする。。。トータル統合キャンペーンをする。。それから
イベント、大きなテレビCFなどね、おおがかりなしごとをせい!!!というね、
ことかもしれないね。。まあ、教えとしてはね。。ほんまに。。男はメジャーで
なければならぬ、とかね。。そういう教えもありますね(古くは矢沢永吉)。。。。
勝てば官軍なのだから、男は勝たねばならない、仕事は勝たねばならない、
とかね。。。そういうお話もある。。まあ、ともかくね、当時関ヶ原の
時代は家康が58歳、本多佐渡が62歳、秀忠が、三十歳ぐらいだったそう
なのでね。。まあ、そこからね、大阪夏の陣となるとね、まあ家康がもう、
死んでいた可能性もありね、本多も死んでいた可能性がありね、いわゆる
そのメンバーはもう、大阪にきてなかった。。影武者がきていてね、
本隊は徳川秀忠だったけどね、秀忠も将軍だから、きていない。。。
まあ、そういうことでね、誰もきていない、大軍の徳川将軍家に
対してね、豊臣の浪人衆とね、真田がね、戦った、ということ
でね。。じっさいもう、没していたとされるね、家康やら本多、
あるいは本多作左衛門、本多忠勝、榊原、井伊などもね、みな
初代は引退してね、子供たちに時代になっていた、というね。。。
ことなんですね。。。ほんまに。。。だからまあ、実際には
徳川秀忠はわずか二回しか人生で戦いがなかった、というね。。。
一回目がね、この上田の戦い、二回目が大阪夏の陣本陣でね。。。
まあ。それでもう、徳川盤石となりね、当時うまれていた
家光の時代になるのであります。。。ほんまに。。ピース!!!
おもしろかった、今夜の真田丸。。。
関ヶ原のシーンが亡くなっていたのは、
意外でしたがね、舞台がもはや、真田幸村の大阪
夏の陣へとすすんでいる、まさに、プロ野球同様
クライマックスシリーズなのでしょうな。。。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
とくに、現代のしごとにも役立つと思われる格言や
教訓が、ドラマの中でもありましたね。。。。
・最初のいくさ(つまり、仕事ね)で、恐怖心が
できると、一生いくさべたになる。。。つまり仕事がうまくならない、
という武将のセリフ (真田の父・昌幸のセリフ)
・武将にとっては、仕事(いくさ)がなく、のんびりと隠居する
のは、なによりの生き地獄かもしれない、(徳川家康)
・勝てると思ったいくさに油断するな。。いくさでは
大軍をかさにきるな。。。徹底的に、のんびりと、じっくり
かまえよ。。。若いものは焦る。。。(本田佐渡守正信のセリフ)
・いくさ(仕事)とは、このようなものであるか????
わたしは初陣ゆえわからぬ???大軍でおしだしたら、
まずいのか???戦、人情の機微がまだわからぬな。。。。
(関ヶ原の初陣で上田城攻めのため、本戦に遅刻した二代将軍秀忠の言葉)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●などなどね、現代のサラリーマン社会、広告、メディア社会に
おいてもね、使える格言がたくさんありましたね。。。ほんまに。。。
そして、舞台は、真田昌幸の処分へと移る。。。そして、幽閉される
真田幸村。。ここから、徳川家康が将軍になり、家康は三年で引退。。。
二代将軍秀忠になる。。また、徳川初代についていた武将も相次ぎ
引退し、本多佐渡の息子が、二代秀忠についていく。。。秀忠は
この関ヶ原が初陣であったために、真田にてこずり、今度は
大阪城攻めを画策するようになる…という顛末。。。おもしろいね。。。
本多佐渡も還暦を超えた家康についていたが、息子が正純となり
二代将軍についたために、そこから幕臣、初代老中、から大老のような
立場となり、最後は、大阪城攻めを決めた二代将軍秀忠に献策を
しながら、じぶんも家康のあとをおい、老衰して江戸でなくなる。。。。
家康もすでに大阪夏の陣のときには、逝去していた、というぐらいの
うわさがあるほど将軍職ははやく退いて、息子に譲ってましたね。。。
そして、真田はこの場面からオヤジである昌幸が九度山で幽閉ご、
病没。。いくさのない、十五年が過ぎ去り、そして、二代将軍
秀忠が還暦になったころにね、豊臣家を滅ぼす大阪夏の陣が
おきて、そこには、徳川軍には、精鋭は多いが、あまり、昔の
軍法を知る者がいなかった、とされているね。。だからこそ、
真田幸村がね、じぶんの武名をあげるためにね、あえて、
戦わずしてもよい、豊臣方についてね、大いくさを仕掛けて
討ち死にした、とね。。まあ、そういうドラマの終わり方である。。。。
だからまあ、●大きな仕事ができないまま、一生を終えるとね、
いたしかたのないものになる…というね。。。教訓もそこには
あるね。。。ほんまに。。。官僚タイプだった石田光成もやっぱり
大きないくさを仕掛けたからね、天下に名前が鳴り響き、残ったのだ、
ということをね。。まあ、死ぬ前の真田は考えていてね、よーし、俺も
やってやる、とね。。。大阪夏の陣に突入してね、まあ、大阪で戦死する
のである。。。まあ、本来は真田がでなくてもね、豊臣は負けていてね、
まあ、無用のいくさであったがね、真田はそこをまあ、大プレゼンにした、
というね。。。いくさがうまかったオヤジをのりこえようとね、まあ、
本来なかったようなところでね、いくさを展開し、大プレゼンをした、
というね。。ことですかね。。。。
それはまあ、いわばね、現代でいえば、あの電通さんがね、唱えて
おられるようにね
●大きなしごとをしろ。。。小さな仕事をするな。。。小さな仕事は
君を卑屈かつ未練がましいひとにする。。。大きな仕事、国を動かす、
世間を大騒ぎさせるような、ビッグでメジャーな重量級のしごとをしろ。。。
(電通 鬼の充足より)
みたいなことかもしれないね。。。ほんまに。。まあ、ライターもね、
ライターでとどまるのではなくてね。。いつまでも、新聞半五段みたいな
しごとではなくてね。。はやく、15段とか30弾をやる。。そして、
大キャンペーンをする。。。トータル統合キャンペーンをする。。それから
イベント、大きなテレビCFなどね、おおがかりなしごとをせい!!!というね、
ことかもしれないね。。まあ、教えとしてはね。。ほんまに。。男はメジャーで
なければならぬ、とかね。。そういう教えもありますね(古くは矢沢永吉)。。。。
勝てば官軍なのだから、男は勝たねばならない、仕事は勝たねばならない、
とかね。。。そういうお話もある。。まあ、ともかくね、当時関ヶ原の
時代は家康が58歳、本多佐渡が62歳、秀忠が、三十歳ぐらいだったそう
なのでね。。まあ、そこからね、大阪夏の陣となるとね、まあ家康がもう、
死んでいた可能性もありね、本多も死んでいた可能性がありね、いわゆる
そのメンバーはもう、大阪にきてなかった。。影武者がきていてね、
本隊は徳川秀忠だったけどね、秀忠も将軍だから、きていない。。。
まあ、そういうことでね、誰もきていない、大軍の徳川将軍家に
対してね、豊臣の浪人衆とね、真田がね、戦った、ということ
でね。。じっさいもう、没していたとされるね、家康やら本多、
あるいは本多作左衛門、本多忠勝、榊原、井伊などもね、みな
初代は引退してね、子供たちに時代になっていた、というね。。。
ことなんですね。。。ほんまに。。。だからまあ、実際には
徳川秀忠はわずか二回しか人生で戦いがなかった、というね。。。
一回目がね、この上田の戦い、二回目が大阪夏の陣本陣でね。。。
まあ。それでもう、徳川盤石となりね、当時うまれていた
家光の時代になるのであります。。。ほんまに。。ピース!!!