まあ、わたしもね、これまでの人生で、
不思議な転機が何度かありましたがね。。。
けっこう、ダンス的に大きかったのはやっぱり、
もともと、ターボ君と出会った、1992年とね、
ダンスをしていた京都を去ることになった、まあ
1994年ぐらいでしょうかね?その時期にわたしは、
NYにいき、まあ、踊りをしてましたがね。。あるとき、
ある晩、あるクラブでね、あの天才ダンス指導者のね、
安藤OHJIサンとお会いしたね。。で、じぶんは
ターボ君と一緒にいたね。。で、まあ、その安藤さんがね、
わたしは直接は知りませんでしたがね、噂には聞いていてね。。。
で、踊りを見てもらったあと、朝まで話し込んだのですね。。。。
じつに、フランクな人柄でね。。でも、きびしいことを
いわれてね。。「そのままなら、踊りをやめたほういい。。。
教えるから、明日スタジオにこないか?」とね。。まあ、
いわれたのですね?で、まあ、わたしは就職で大阪にでそうな
時期でしたしね。。まあ、そのスタジオは家の目の前でしたがね、
確か土曜日か、日曜日の夜でしてね。。朝まで、そこでOHJIさんと
飲んでね、踊りを見せてもらったのですね。。まあ、だから、次の日の
昼にね、「ここにこい」とね。。。当時のマネージャーみたいな
人にね、いわれたのですね。。で、ターボ君がそばにいたのですよね???
で、ターボ君はバタフライを少しやっていたのかな?で、なぜか
OHJIさんがね、「君もバタフライか?」といってきてね、わたしは
「そうじゃない。。わたしは遊び友達だ…」と切り返したらね、
安藤さんが、俺に習うなら踊りをしてもいいけど、そのままなら、
踊りをやめろ、といわれてね。。まあ、いきなり会った俺にね、
含みがある話をされたね。。まあ、だから、これは、なんか
京都から大阪にでろ、という話なのかな?と思ってね。。。
ひとばん、考えて、次の日、そのスタジオにはいかなかった
のですね。。で、ターボから、えらい話し込んでいたなあ、
なんの話だったんや?といわれたのでね。。なんか、ターボには
「あいつは京都にいたほうがいい、東京にでてくるな」とね、
いっていたよ、といいましてね。。ターボもね、それはよく
いわれていることだ、といっていてね。。まあ、ターボは
東京進出を考えていた時期があったのですよね?でも、
それがね、まあ、安藤さんが「あかん」とね、いっていた
わけですね?で、わたしにも、それをおっしゃっていたね。。。
ターボは京都にいたほうがいい。。そのほうがいい、とね。。。
で、わたしは大阪にでた。。で、ターボはしばらく、バタフライを
したあと、ビートライブになったのですね?で、まあ、大殺界に
なってきたからね。。まあ、わたしがビートライブの手伝いをする
ことになりましたね。。で、そういうのが、けっこう、15年ぐらい
続いてね。。いまはもう、あんまりかかわりがないですがね。。。。
まあ、新たなダンススクール、ダンス芸能人などとね、いろいろ
交流があるんですがね。。まあ、そのね、OHJIさんがね、
誰かに頼まれたのか?あるいは、運びだったのか?じぶんが
大阪にでたほうがね、結局は儲かったしね。。まあ、苦労はした
けど、踊りはしなくてよかった、というね。。部分もありーの、
また、京都にいたら、どーだったのか?ターボをね、ちゃんと
京都のダンスのボスにしないといけない、というね。。意向も
あったのかもしれないけどね、当時のOHJIさんがね、場所を
選んでね、わたしにその話をされたのがね、まあ、不思議でしたね。。。
で、それ以来はね、まあ、わたしは、大阪のYOBBOなどとね、
まあ、付き合っていましたがね。。まあ、ターボともかなり、
仲良くしてましたがね。。まあ、ターボも京都に残留してね、
成功した、というね。。まあ、だから、あれでね、ターボも俺も
もともとは、ふたり別々に東京を目指すことにしていたのですね。。。
もともとはね。。。ターボはターボでね、誰かをつたってね、
東京にでる。。わたしも、企業人として東京にでる、というね。。。
寸前でしたがね。。OHJIさんがね、まず、ターボはでないほうが
いいといいだしてね。。で、ターボがでないのなら、君もでない
ほうがいいんじゃない?という話でね。。まあ、それで僕が先に
大阪にぱっとでたんですね。。で、ターボは京都で活動していてね、
しばらく、ダンサー狩りみたいなね、こともあってね。。で、
おとなしくしていて、そこにまあ、豊原さんが環境を用意した、
というね。。まあ、だから、ZOOが解散する寸前にね、まあ
そういうことが起きてね。。まあ、わたしは大阪にでた。。。
で、ターボ君は京都でね、、まあ、有名になった。。ほんまに。。。
だからまあ、そこがね、かなり、不思議な一夜でね。。いまもって、
OHJIさんがね、飲みながら俺に話してくれたことはね、
なんだったのか???というね。。ほんまに。。ともかく、
お前は大阪にでろ、というね。。話をされたのがね、不思議
でね。。ほんまに。。そのあとね、十五年もまあ、俺はミナミに
いたわけですがね。。。まあ、不思議でしたよね。。ほんまに。。。
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で、そのあとは、京都にも何度かいきましたがね。まあ、
なんかね、京都の夜はよく覚えているけどね、まあ、京都に
近寄らなくなりましてね。。。2010年代にね。。ほんまに。。。
一切京都に行かなくなりましてね。。まあ、大阪も福岡も、
なんですがね。。これはもう、酒が飲めないから、なんですがね。。。
ほんまに。。夜出歩かないから、なんですがね。。ほんまに。。。
まあ、その意味ではねえ、大阪にでていた、二十年???通算ね。。。
まあ、これは、なんだったのか???というね。。ほんまに。。。
POPの手習いをしてね。。。大阪にでて、二十年?で、まあ
帰郷した、というね。。で、それからはもう、でなくなった、
というね。。だからまあ、あのとき、OHJIさんがちがう
話をしたりね、あるいはまあ、その、OHJIさんの昼間の
レッスンをうけていたらね、わたしは京都に残っていたかもしれない
のでね。。不思議な一夜でしたね。。。ほんまに。。すごい
不思議でしたね。。ほんまに。。なんだったんだろう???
というね。。感じでしたね。。。ほんまに。。ターボが手配した
のかね。。どうなのかね。。。ほんまに。。まあ、なんという
のかね、ターボと俺がね、道が分かれる必要があった、というね、
感じもあったね。。。。ほんまに。。。まあ、そこはもう、いま
もってわからない。。。ほんまに。。謎の一夜でしたね。。。
ほんまに。。で、それからもう、三十年近く過ぎてますからね。。。
まあ、なんというのかね。。俺ももう、京都、大阪では踊らない。。。
福岡もいかない。。年齢的にもね。。ほんまに。だからまあ、
踊れる若さがあったうちに、大阪にいてね、踊っていてね、
踊れなくなったら、帰郷して作家になった、というね。。。
感じかな。。ほんまに。だからまあ、大阪で十五年プロで
やった、という感じですよね。。まあ、それがね、OHJIサンの
教えでね。。大阪にでろ、とね、いわれたことがね、まあ転機と
なった。。。ほんまに。。。まあ、もう、二十五年ぐらい前の
話ですがね。。。よく覚えてますね。。不思議な話でしたね。。。
ほんまに。。不思議な一夜でしたね。。ほんまに。。。ピース!!!
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結局、日本は80年後に、5200万人になる。。。さらに1391万人、423万人になる。・・・
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