秀吉は信長配下にいたときは
近江長浜にいて、織田信長がいる
安土城のそばに住んでいたね。。。
で、出身は名古屋の尾張の百姓の
子供でね。。もう、極貧の商売人だった、
とされていますね。。で、十代で織田信長の
ウマ回り、というかね。。世話役に選ばれてね。。。
当時はそうはいっても、織田信長もまだ、二十代初頭。。
徳川家康はまだ、十歳ぐらいでね、今川に人質に
なっていた。。だからまあ、大学生と高校生と
中学生、みたいな関係が織田信長と豊臣秀吉とね、
徳川家康の年齢差であったわけです。。そこから
秀吉は、さまざまな知略でね、織田信長軍団で
頭角を現す。といっても、織田家にはさまざまな家柄、
格式があり、家老筆頭の柴田勝家などから、強烈な
差別と蔑視をうけていた秀吉。。しかし、まあ、軍略上でも
すぐれていることから、だんだん信長軍団の一角を占める。。。
それから、人質から解放されてきた徳川家康が織田軍団に
加勢して同盟を結ぶ。。。ここで、総大将・信長と
家来のひとりである、秀吉。。そして、同盟とは
いいながら、子分みたいな家康とね。。まあ、その
関係ができあがるね、。で、安土にいた信長、
滋賀県近江長浜にいた秀吉。。そして浜松にいた
家康とね。。いまの、名古屋圏人、東海地方の
人々がね、全国制覇を成し遂げていったわけですね。。。
まあ、いまのトヨタみたいなね。。愛知県、名古屋、
尾張の人間だったわけですね。。。信長もね、清州
でしょ。。秀吉も尾張の農民。。家康は静岡の
零細武門の子供でね、幼いころ、父を殺されているね。。。
ということでね。それがみな、大きくなり、安土にいた
信長から、長浜にいた秀吉に、毛利征伐の命令がくだり、
そこに、毛利VS羽柴秀吉の戦いとなり、織田信長に
救援を求めて、信長が本能寺に入ったところを、
兵庫県の坂本にいた、明智光秀が襲い掛かり、
まあ、織田を滅ぼし、その足で安土を燃やした。。。
それに対して、姫路の向こうまできていた秀吉が
三日ぐらいで、京都の山崎まで帰ってきて、明智軍を
滅ぼし、そのあと、清州の城に入り、織田家は自分が
守る!!!と、いいはじめる。。それに、まあ、
柴田勝家などが反対するものの、それを秀吉は
もともと、長くじぶんの上にいた先輩ではあるのに
追い詰めて、殺していく。。まあ、そこから秀吉が、
明智も殺し、柴田も殺し、滝川も失脚し、丹羽長秀
も始末して、46歳で山崎の戦いに勝った秀吉が、
当時まだ、本願寺攻めで焼け野原になっていた、
大阪の土地を占領し、48歳から大阪城を建造し、
53歳のときに落成する。。五年かかったわけですね。。。
ほんまに。。それまでは、秀吉はどこにいたのか???
わかってない。。つまり、長浜にいたのか、どこを
居城にしたのか???でしょ???立てているときの
住居があるわけでね。。。ほんまに。。で、大阪城に
伏見城、聚楽第と築いてね、関白、大政大臣となり、
天下人になった、53歳のときに、すでに末期の
病がはじまっていたのですね。。ほんまに。。で、
五歳下の徳川家康を北条征伐のあと、関東に追放して、
58歳のときに、死のとこにつく。。このときに、
豊臣五大老というね、制度をまあ、思いついて、それを
石田三成に実施させたわけでね。。まあ、それについては
日明戦争を勃発させているわけでね。。まあ、そこに
徳川などが参加しなかったことでね、家康の軍事力が
残っていく。。そして、秀吉が60歳になったときに、
もう、余命がない、ということで、豊臣五大老に、
徳川、毛利、上杉、宇喜多、前田???などを指名する。。
で、幼い秀頼がいたから、頼む、という話を家康に
したものの、家康は長年の遺恨から、それを許さず、
秀吉が死んだら、すぐに関ヶ原になり、上杉を滅ぼす、
と挙兵しておいて、大坂方の挙兵をまち、石田を殺し、
毛利と島津などを追いやる。。そこで、徳川征夷大将軍
となり、江戸幕府が開かれて、すぐに二代将軍秀忠の
時代となる。。。まあ、これでね、けっきょく、
難しい勢力は織田信長がさばき、倒し、そのあと
残っていた大名は秀吉が従え、それをまあ、徳川は
そのまま軍事力と、キャリアの差でね、従えていった、
というね。。まあ、つまり、軍事力は信長、秀吉に
軍配があがっていたのにね、寿命が先についえた
そのふたりをね、長生きした家康が政治力で上回る、
というね。まあ、それで、左遷された関東でね、巨大な
兵力(つまり、若い農民兵士だね)を育成していた家康がね、
秀吉、三成、大谷、片桐、毛利、島津などのいなくなっていた
大阪に襲い掛かったのが、1614年前後の大阪冬の陣、
夏の陣でね。。ほんまに。。だから、秀吉はつくったばかりの
城に八年ぐらいしかいなかったわけでね。。ほとんどもう、
最晩年の居城が大阪城だったわけでね。。途中で若いころは
長浜に数年いたわけでしょうからね。。(およそ13年
いたといわれているね)そこから、大阪にでたときにはもう、
病気になっていた、というね。。。死のとこはもう、
京都の伏見城であり、ここで、58歳から闘病生活を
送り、そのまま伏見で死んでいるね。。。その、あの
死の時に有名な「浪速のことも夢のまた夢」というのは
死ぬ前に、官僚である石田か、誰かがこしらえたもの、と
されているね。。このへんは、まあ、、あの高仁さんの
末期に似ているね。。死ぬ15年前にはたかじんさんは
もう、癌だった、というね。。つまり、48歳ではもう、
癌だったたかじんさん。。秀吉も48歳のときにはもう
癌だった。。それを、43歳の家康が、朝廷からの
密告で知らされるわけです。。それで家康は、
長生き路線に転換する。。秀吉と戦わない道を
選んでいく。。秀吉には幼い側室の子供しか
いなかったが、家康にはもう、頼もしい
二代将軍秀忠がね、そばにいた。。。だから、
まあ、それで、家康も戦略を練り直していく。。。
このあたりはもう、大阪城をつくったときには末期がん
でね。。で、隠居城である伏見城で闘病四年で死んだ、
というね。。秀吉の末期だから、長浜にいた時代から、
亡くなるまで、すごいはやかった。。ちなみに秀吉は
長浜城をもらったのは、信長がいた時代だから、35歳
ぐらいの頃らしいね。。俺が、C&Pの部長になったのも
その頃だからね。。まあ、だいたいは、そんなものでしょう
ね。。ほんまに。。で、小さい城ですからね。。滋賀県の
近江ですからね。。ほんまに。。まあ、そこに十年いて、
そこから毛利征伐に入ったのが、45歳ですかね。。で、
46歳で織田信長が亡くなり、山崎の合戦に勝利、、さらに
清州城に入り、織田家をのっとり、47歳で賤ヶ岳の戦いで
柴田勝家を滅ぼし、長浜から大阪にでるために、大阪城、
伏見城、聚楽第を建造し始めたのが、48歳というね。。。
で、そのときにはもう、末期の癌におかされていた、
というね。。ことなんですね。。ほんまに。。だからまあ
天下をとったときにはもう、病死の寸前だったのですね。。。
まあ、家康もそうですがね、まあ、そう思うとね、英雄も
40代からは速い。。ひじょうに短いスパンでね、動いて
いき、、まあ、臨終、病死を迎える、ということですね。。。
ほんまに。。まあ、そのへんがね、やっぱり、時系列で
読み解くとね、わかりやすいですね。。秀吉は尾張の
出身だったけどね、大阪にでたわけでね。。もともと
生粋の大阪人じゃないのですね。。浪速の太閤さんだけど、
なにわの人じゃないない。。最後まで名古屋の言葉を
操っていたわけですね。。信長は岐阜の言葉を操っていた。。。
家康は死ぬまで静岡弁だった、というね。。。ほんまに。。。
だからまあ、秀吉は名古屋→滋賀県→大阪とでてきてね、
最後はまあ、大阪城があり、伏見城があり、聚楽第があるが、
大阪城で寝たきりになりね、闘病十年ぐらいで、まあ、
亡くなった、というね。。ほんまに。。実際は最晩年は
伏見城で寝たきりになり、四年の闘病で死亡しているね。。。
それに比べて、若いころから薬やら薬草を飲んでいた、
とされる徳川家康は、割と健康だった、というね。。
ことがあるんでしょうね。。秀吉はすでに病気が
あるのに無理をして、茶会をしてね、お茶を
たしなみ、女性を愛したね。。まあ、要するに、
いまでいえば、亡きたかじんさん、とかね。。
あーいうさ、病なのにね、女をつくり、毎晩の
ように、ワインを飲んだり、ハワイにいったりね。。。
それと同じですよね。。寿命の縮め方がね。。ほんまに。。
まあ、もう、余命がないからね、そないしたのかも
しれませんがね。。たかじんさんも売れたのは44歳、
単独番組をもちはじめたのは、48歳でね。。その
ときにはもう、癌だった、というね。。ほんまに。。。
で、その当時にわたしとか富君、岡くんがね、あの
遺言のようなね、「たかジーン。。。」原稿を
こさえていたわけですね。。。ほんまに。。。
そのへんはまあ、山中君がね、そういう
指揮をとったわけでね。。。ほんまに。。。
山中君がね、まあ、たかじんさんの官僚だったね。。。
ほんまに。。いまもね、安倍総理もね、そんな
感じになってますね。。安倍総理はね、まあ、
徳川家康みたいな感じですがね。。まあ、わたしも
注意しているのですがね。。ほんまに。あんまり
油断するな、とね。。ほんまに。。先日も大きな
花見をしてね、豊臣太閤のようだ、とね。。周りが
浮かれていたのでね、このたびの大震災になった
わけですからね。。まあ、わたしがね、それは
「そういうことじゃ、いけませんよ…」とね、
たしなめてますがね、まあ、それは聞く耳がない
のかね。。もう、最高権力者だからしょうがない。。。
まあ、その意味でいえばね、それも似ているわけ
でね。。田中角栄も似ていたしね。。。ほんまに。。。
まあ、安倍総理みたいなものでね。。最高権力者
だけどね、毎日晩餐会をしている。。女性を
楽しんでいるね。。。いっぽう、家康は金がない、
財力がない、兵力がないからね。。まあ、健康で、
薬ばかり飲んでいた、というね。。ほんまに。。。
で、性格的にまあ、それなりには親しかった
秀吉と家康の人間関係は、秀吉が生きている間は
崩れなかったが、秀吉が死ねばね、徳川家康はまあ
本気をだしてきた、というね。。あたりですね。。。
ほんまに。。まあ、そのへんがね、これからも
真田丸でおもしろい部分ですかね。。ほんまに。。ピース!!!
●だからまあ、秀吉は大阪人ではなくね、尾張から滋賀にでた
人でね、ほとんど、滋賀県人だった、というね。。ほんまに。。
で、大阪城(実際は伏見城)の居間で亡くなったのですからね。。
あの、城東の大阪城の一室でね、闘病して死んだわけでね。。。
ほんまに。そこを、江戸城から家康がね、攻めてきた、
というのがね。。まあ、そういうね、大阪夏の陣、
冬の陣でね。まあ、それはもう、秀吉が死んで、
十五年ぐらい過ぎたあとだった、というね。。。
ほんまに。。まあ、家康もね、そんなに年をとってね、
大阪城を攻めた、というのがね、なんか、すごいですね。。。
いまにしてみると、かなり、コミカルですよね。。まあ、
それはね。。怨みがあったにせよね。。ほんまに。。。ピース!!!
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秀吉は元は滋賀の近江の長浜にいて、そこから大阪にでてきて、天下人になり大阪で死んだのですね
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